『人は何故「鍵をかける」のか』
SNSが生活のリズムに組み込まれてから何年経ったでしょうか。時間があけばスマホを手にとり、Facebook、インスタ、Twitter、、iPhoneのホームボタンを連打しながらネットに侵されている、どうもサトウです。
一見こういった書き方をすると「インターネットが全てじゃない」とか「FACEtoFACEが大切」だとか、ちょっと否定的な?事を言う人が必ずいるのですが、そんな時、私は「この人それ言いたいだけなんだろうなぁ(白目)」みたいな感情になります。
そんな事は分かってるんだよ、ボケ
そんな気持ちになります。
※暴言失礼
だいたいそういうこと言う人は、恩恵というか、それがもたらす可能性みたいなものを実感してない人が多いですよね。使うだけ使いまくってそれでスイモアマイモ体験して、喧騒から逃れるべく隠居する、みたいな人が言うなら分かるんですけどね、大して使い込んでないくせに「スマホばっかり触りやがって」って言う人。
そういうのを情弱っていうんだよ
と言ってやりたくなります。
※暴言失礼
ちょっと本題から逸れましたが、インターネットというオープンソースなツールで、クローズドな使い方をしてる人、結構いますね。「鍵をかける」ってやつですね。それ自体に僕は特に言うことはないのですが(もったいないな、とは思うけど)、それでも使い続けるモチベーションとは一体どこから来てるのだろうと。ここに、現代のコミニュケーションのちょっとした変化が現れてるな、と僕は感じています。自分が知ってる人、心許す人、見られてもいい人、をセレクトしてその中でコミニュケーションする。それって本来の形だと思うんですよね。知らない人とぅヤッホーぅ!みたいに絡めるのは酔っ払いか、そもそもそういうツール使ってない人でしょう。
昔の価値観ならば、それはそれこそ「FACEtoFACE」で遊んどけば良かった。それが、SNSが介入してからは、その「知らない人」との壁が一気に低くなった。
で、そこに拒絶反応を感じる人達が現れた。至極、当然の流れだと思います。ただ、それが理由で「鍵をかけている」人はそんな多くない気がします。1番多いのは
「知ってる人」だけど「見られたくない人」がいる。
ということです。
別に喧嘩したわけでも嫌いなわけでもないし、FACEtoFACEでは普通に話すけど、「見られたくない」。
これは、先述の「スマホ依存」よりも重要視すべき問題じゃないかと感じています。要は ありのままの自分なのにそれが本当の自分だということに気付いていない ということか、 インターネットが逃げ道 になってるパターンに陥ってはないか、ということです。
自分を守りに入ってない?
自分は自分、他人は他人、その思考の先に、通ずるものがあると私は思っています。自分と同じ人なんている訳ないんだから、ありのまま曝け出して、FACEtoFACEでもぶち当たって行けばいいんじゃないでしょうかね。
人のこと気にし過ぎても、特にいい事はないから、どう思われても「自分」というものを強く持てる思考に少しずつ変えていきましょうよ。
という事を月曜日の昼下がりに、偉そうにダラダラしながら書いてみました。
※リアルSNS依存の人もいますが、それはもう置いときましょう。
ま、俺人見知りやけどな。猛爆
腹減ったなー